ニコラス・アンドレス・ブルデュッソ、戦士のスピリット

 インテルでもキャリアを過ごしたニコラスはファイターであり、手本であった。「私は信じられないスーパースター選手たちとロッカールームを共有していた」

 ミラノ発 – ニコラス・アンドレス・ブルデュッソのファイティングスピリットは彼が誕生した場所アルトス・デ・チピオン(アルゼンチン、コロドバ州の小さな田舎町)からきている。

 その場所はその土地固有の誇りと何百年前に外の脅威から勇敢に守りきった町民の伝説で染まっている。彼らはブルディッソ家族が高潔な伝統を継続していくことを知っていた。

 父親は元コルドバ・デ・イスティトウートの元サッカー選手であり体操教師のエニオ・ブルディッソ。男としてサッカー選手としてのカリスマ性、パーソナリティが基盤要素であるロザリオとブエノス・アイレスという街がニコラスとサッカーの関係性は築いた。

 幸運にもブルディッソは困難に立ち向かう闘志が多くあり、アルゼンチンのタレント集団の集まりであったネーウェルス・オールド・ボーイズで彼は人々に才能の片鱗を見せつけ始める。だが、レーパーズ・アカデミーで2年を過ごした後、この若きDFは見捨てれてしまう。ニコラスにとって難しい時期だったが、彼は最善を尽くしてこの厳しい状況を切り抜けた。彼は現実をしっかり見て、ハードワークし、戦ったのである。

 彼はアルゼンチンの首都に移住し、ボカ・ジュニアーズのトライアウトを受ける。そして、彼はテレビでしか見たことがなかったサッカー界の威厳あるスタジアムであるラ・ボンボネーラを本拠地にするチームの一員として迎えられた。そして、生まれてからその場所でプレーしたいと思っていた場所でもあり、彼は圧倒的なパフォーマンスを披露することになる。

 ボカでの在籍期間中に2度のリーグタイトル、3度のコパ・リベルタドーレスカップ、2度のインターコンチネンタルカップを成し遂げ、インテルの注目を受けるには十分だった。そして、アルゼンチンからミラノに戦いの場所を移す。新天地スタディオ・ジョゼッペ・メアッツァでは80,000人のファンたちが彼を待っていた。

 2004年から2009年、ブルディッソは常にネラッズーリのロッカールームに姿を現し続けていた。長い期間の後、彼はインテルのスクデット奪還に貢献したのである。ロベルト・マンチーニ、ジョゼ・モウリーニョが監督を務めた時期、先発メンバーが誰であろうと勝利を収め続け、本当に素晴らしい時間であり、彼はそのチームでの主要メンバーの1人であった。最終的に彼は4度のリーグ優勝、2度のコッパ・イタリア優勝、4度のイタリア・スーパーカップ優勝をインテルにもたらした。

 「インテルでは冷静でポジティブな雰囲気だったと覚えている」と、彼は振り返り、「私は信じられないスーパースター選手たちとロッカールームを共有していた。みんな謙遜で真っすぐな人たちだったよ」と話した。

 ブルディッソはインテルで100試合以上に出場、2006-07シーズンのコッパ・イタリアでの4ゴールを含む(彼が得意としたヘディングシュートで2ゴールをベスト16で奪う)8ゴールを記録。彼は重要な瞬間を経験している。例えば、永久欠番となるジャンチット・ファッケッティが着ていた背番号3のユニフォームを身に纏っていた。だが、プライベートで悲劇が彼を襲う。白血病を患った娘のアンジェラを看病するために、彼はサッカーから離れることを決める。

 その間ずっと、彼はいつも頼りにできるファンのサポートを受けていた。そして2005年10月のリヴォルノ戦で拍手喝采の中、試合復帰を果たす。彼は後にインタビューで執筆が辛い時期を乗り越える手助けをしてくれたと明らかにした。

 「村上の1つの文にこう記してある:“物事を本当に理解する感覚を得るには、私はそれらを書き留めなければならない“。だから、私の人生の物語を紙に書いたんだ。私は妻のマリア・ベレンしか、この物語を読ませていない。執筆はよく考えることを助けてくれた」

 ニコラスはユニークな人物であり、それが彼の全キャリアを示している。2009年、彼はインテルを去りローマに加入し、彼の弟ギジェルモもローマに移籍してきた。その後、彼はジェノアのユニフォームを着ている。スタディオ・オリンピコ、スタディオ・ルイージ・フェッラリスで彼は戦うことを止めなかった、理由は非常にシンプルだ。彼の魂がそう要求しているからである。

 アルトス・デ・チピオン出身の子供がこのような素晴らしいキャリアを辿ったことは誰も予想できなかったはずだ。


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