飛躍と栄光に満ちたパトリック・ヴィエラのキャリア

 現役時代にプレミアリーグとイタリアで様々なタイトルを獲得し、引退後に監督となった元フランス代表のキャリアを振り返る。

 ミラノ発 – パトリック・ヴィエラのプレーを見ることは、しばしば困惑させられるものだった。足が長く193cmの体格の彼は、特筆すべき特技に恵まれているようにも、コントロールに長けているようにも見えない。しかし一度ボールが彼の足元に来たならば、もしくは大抵の場合そうであるようにヴィエラ自身が対戦相手からボールを奪ったならば、話はまったく違ってくる。

 フランス南部からロンドンのハイベリー、やがてブラック&ブルーのインテルのサン・シーロに辿り着くまでには、ファンもヴィエラがどんな選手なのか理解していた。つまり激しいタックルや高い位置でのヘディング、または一寸の狂いもない完璧なパス、見応えのあるゴール、独特のランニングスタイルを持つ選手であるということを。

 彼の大きな歩幅は、彼が人生と選手キャリアで経験した大きな飛躍、つまり希望に溢れた若者から最終的にピッチでポジションを確定するまでを反映している。最初の一歩は彼が8歳の時、セネガルのダカールからフランスに渡ったことだった。そのフランスで、1976年6月23日生まれのヴィエラはトゥールFCとカンヌでプレーした。

 次の大きな飛躍はイタリアのACミランに移籍したことだろう。しかしヴィエラはファビオ・カペッロが指揮を執るチームで1995-96シーズン、その実力を証明するのに大変わずかなチャンスしか恵まれなかった。再び移籍について考え始めたヴィエラは、フランスでのヴィエラのパフォーマンスを評価しており、アーセナル監督に就任したばかりのアーセン・ヴェンゲルの元でついにチャンスを掴む。

 ロンドンで過ごした9シーズン、そしてアーセナルを離れた後の15年間も、ヴィエラはセントラル・ミッドフィルダーとしてプレーする選手たちの頂点に君臨し続けた。素晴らしいチームの心臓部として、ヴィエラは対戦相手のプレーを遮り、チャンスを作り出し、しばしば自らゴールを決めた。最終的にヴィエラはアーセナルで約500試合に出場し、57得点を記録した。ヴィエラはその得点のうちの多くをキャプテンとして挙げている。この並外れた活躍を見せたこの時期に、ヴィエラはその上フランス代表として1998年のワールドカップと2000年のユーロで優勝を果たしている。

 アーセナルを離れた後、ヴィエラはかつて志半ばで離れた国、イタリアに戻ってきた。監督ファビオ・カペッロが指揮するユヴェントスに2005年に移籍したものの、ここでもまた1シーズンしか在籍しなかった。ビアンコネーリが降格した後、ヴィエラはトップレベルでサッカーを続けることを切望し、インテルへの移籍を決断する。そしてこれにより、インテルのクラブ史上最も栄光に満ちた時代のうちの一つが始まった。

 このフランス人のカリスマと経験は、タイトルを渇望していた選手たちを鍛える上で重要な助けとなり、チームは実際にすぐに軌道に乗り始める。インテルでのデビュー戦となったイタリア・スーパーカップのローマ戦でヴィエラが決めた2得点は、0-3で負けていた状態から4-3の逆転勝利を挙げるために決定的に重要なものだった。これは、ネラッズーリが15回目のスクデットを獲得するシーズンに手に入れた最初のトロフィーだった。

 インテルで数多くのタイトルを獲得したヴィエラは、その後マンチェスター・シティと契約して再びプレミアリーグに戻った。そして同クラブで試験的に指導者として最初の一歩を踏み出した。現在彼はアメリカのニューヨーク・シティFCの監督を務めている。

 彼の飛躍はここで終わらないと、インテルは確信している。パトリックの更なる飛躍と幸運を願っている。


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