ミラノ発 - 「僕にとってフットボーラーであることは放浪者であるようなものだよ。ボートの船員は僕か、彼らかだけなんだ」。これはルイ・バルボーサが、1916年の南米選手権(コッパ・アメリカの前身)を前にブラジルの外務大臣であったラウロ・ミュラーに対して発したコメントである。第一次世界大戦の最中であったブラジルでは船が不足していたが、セレソンはアルゼンチンへ渡り、大陸王者へなるために船を必要としていた。しかし彼らの要求は拒否され、結局は長距離の電車移動を余儀なくされた。その結果、この大会ではウルグアイが優勝を果たした。
この逸話とは別にもう1つ興味深い事実がある。数年後、多くのイタリア人を含む旅人の一団がブラジルの南へと向かい、ドイツ人外交官の名の付いた都市を設立したのだ。そして1986年、この都市でエデル・チタディン・マルティンスが誕生した。彼の先祖は、イタリアのヴィチェンツァからより良い生活目指し、南米へ石炭の採掘をしにやって来たのだった。旅をして勝負をするというこの遺伝は、ネラッズーリのセンターフォワードにも受け継がれている。彼はフットサルのコートで彼の技術を磨き上げ、やがて11人制のサッカーを始めた。
エデルが初めてその才能を見せつけたのは、学生選手権Moleque Bom de Bolaでのことだ。エデルはこの学生選手権に、若き日のマイコンも所属していたクリシウマの一員としてプレーした。エデルはこの試合で2ゴールを挙げ、クラブでの素晴らしいスタートを切った。エデルのペースやパワーに惚れ込んだ監督ルイス・カルロス・バルビエリの下、エデルは3年間タイガースでプレーした。彼はバルビエリの指揮下、鎖骨を骨折する重傷を負ったにも関わらず、チームを2005年の州リーグ優勝へと導いたが、チームは国内3部リーグに降格してしまった。
しかし、彼の失望は長くは続かなかった。レッチェとのエデル獲得争いを制したトスカーナのエンポリに移籍を果たしたのだ。エンポリはエデルをまずプリマヴェーラに加入させたが、更に経験を積ませるために、彼をフロジノーゼに期限付きで移籍させた。エデルがエンポリに戻った2009-10シーズンに、エンポリはセリエA昇格を果たしている。エデルはその後もブレシア、チェゼーナでセリエAでの経験を積むことになる。彼は前チームのファンに対して非常にオープンであり、トリノやローマのオリンピック・スタジアムで祝い、彼らの前で「サン・シーロでゴールを決めることを夢見ている」と述べている。
その願いは、数年後に叶うことになる。サンプドリアでプレーしていた時に、インテルとAC ミランを相手にゴールを決めたのだ。しかしこれらのゴールは、サンプドリアが両試合に敗戦しことで無意味となってしまった。しかし昨年4月、エデルはインテル選手としてホームの多くのファンの前でゴールを決め、更に素晴らしい感覚を味わうことになった。その賞賛は、エデルのようにサン・シーロで疲れ知らずで逞しいプレーを見せ、いつでも自分自身よりもチームのためを考える者にのみ与えられるものだ。例えば、最終的に残念な結果に終わったものの、このブラジル生まれのイタリア代表は2015-16シーズンのコッパ・イタリア準決勝ユヴェントス戦でセンターフォワードとして素晴らしいパフォーマンスを見せ、ユヴェントスに苦戦を強いた。
幸運を掴みに南米へ向かった昔の移民とは違い、エデルは真逆のルートを歩んでいる。エデルにとってイタリアはゴールと成功を意味し、インテルはヨーロッパでトップになるための旅路を切り開くことができるだろう。
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