ミラノ発 - 「センターフォワードで君を見つけた」
1956年、ジュリオ・
アンジェリッロにとって初のプロサッカークラブチームはラシン・デ・アヴェジャネーダであり、1955年のデビュー戦で2ゴールを奪った。その後、ボカ・ジュニオールズに移籍し、1957年のコパ・アメリカにアルゼンチン代表として招集された。ペルーで開催された同大会は、アルゼンチン代表が圧倒的な力を見せつけた。6試合を戦い5勝、ジジことヴァルディール・ペレイラ率いるブラジル代表にも3-0で勝利した。アンジェリッロはウムベルト・マキオ(10得点を決め、この大会の得点王)、オマル・シヴォリと共に迫力ある攻撃を披露し、8得点を奪った。
特にぬかるみのピッチでの練習後、アルゼンチン代表専属のマッサージ師がこのトリオを『the Angels with Dirty Faces』(汚れた顔の天使たち)と呼んでいた。そして、彼らはイタリアと向かう。
シヴィオリはユヴェントス、マキオはボローニャ、アンジェリッロは両親と共にインテルに向かった。当時20歳でインテルに加入したアンジェリッロにとって最初のシーズン、言葉の壁に悩みながらも16ゴールを奪った。インテル選手リヴィオ・フォンガロ、エネア・マシエロと共に連係を深めていき、アンジェリッロの人生ベストシーズンとなる1958-59セリエAに臨む準備が出来た。
アンジェリッロは、「ゴンザロ・イグアイン? 私の記録を破るには、彼は18チームのリーグで戦う必要がある。この記録は18チームを相手に達成したものだ」と新しいアルゼンチンのゴール製造機について言及した。
1958-59シーズンセリエAのアンジェリッロを止められる選手はいなかった。33試合に出場して、なんと驚くことに33ゴールを決めたのだ。同シーズン序盤のスパル戦では、69分間で5ゴールを奪っている。アンジェリッロはペナルティーエリア内だけではなく、すべてを支配していた完璧なプレーヤーだった。
最高レベルのプレーを体現化し、ゴールへの嗅覚を持つ、汚れた顔の天使はすぐにインテルの人気選手となった。残念ながら、唐突にアンジェリッロとインテルの繋がりが壊れてしまう。だが、絆は継続したままであった。なぜなら、本物も愛は不滅だからだ。
アンジェリッロは現役を引退した後、監督に転身し、多くの時間をユースチームに費やしていた。1975年から1977年の間、アンジェリッロはブレシアの監督を務め、2人の若き優秀な選手(アレッサンドロ・アルトベッリとエヴァリスト・ベッカロッシ)を育て上げ、この両選手はその後すぐにインテルに移籍した。
ブレシアの次にアンジェリッロはASDレッジョ・カラブリア、1978-79シーズンにはペスカーラで監督を務めた。一度セリエAから降格したが、アンジェリッロがチームをまとめ、信じられないような快進撃で翌シーズンにセリエA昇格を果たす。
最高のラブストーリーにはエンディングはない。監督業を引退した後、アントニオ・アンジェリッロはイタリアでの出発地点であるインテルのスカウト部門(南アメリカ地域)で働き始める。ジュリオ・カペッリと同じく素晴らしいスカウティング能力を示したアンジェリッロは、新たな若いアルゼンチン選手をインテルに連れてきた。バンフィールドの為にプレーした青年は、『The Tractor』(ザ・トラクター)の愛称で呼ばれていた。誰もが知っているハビエル・サネッティである。新しいインテル・レジェンドが誕生する瞬間だった。