ジェゼッペ・メッツァの伝説

 MondoFutbol.comが、現在ではスタジアムの名前にもなり、今でもミラノダービーで最多得点記録を保持する人物の人生を振り返る。

 ミラノ発 – 1930年2月9日、イタリア代表監督ヴィットーリオ・ポッツォがスイス戦の先発にアッティラ・サルーストロを起用しなかったことで、数多くのナポリファンが怒りを露にする。パラグアイ出身のスター、サルーストロは、ナポリファンのアイドル的な存在だったため、彼を起用しない決断が侮辱と判断されたのだ。そのため、サポーターはその怒りを爆発させるため、ローマへと足を運んだ。

 しかし、ポッツォ監督は、生まれながらに先見の目を持つ実用的な男だった。そして、サルーストロを使わず、ジュゼッペ・メアッツァにイタリア代表デビューのチャンスを与える。メアッツァは当時、ミラノでインテルファンに人気を博した若き有望株だった。

 イタリア代表は、マリオ・マグノッツィとライムンド・オルシのゴールで2-2の同点に追いつくと、そこからメアッツァがネットを揺らし、“何とか引き分ける”から4-2の“快勝”へとチームを導く。すると観客のブーイングが一瞬で歓声に変わった。

 メアッツァはミラノで何年もの間、ポルト・ヴィットーリアで暮らしていた頃友達から名づけられた『ペッピーノ』というあだ名で通っていた。そして、この並外れた才能を持つ選手に最初に着目し、クラブの関心を向けさせたのは、当時インテルを指揮していたアルパド・ワイズの下でプレーするフルヴィオ・ベルナルディーニだった。ベルナルディーニは、自分たちの練習後にユースチームのトレーニングを見学することを習慣としていた。そして、彼のサッカーに対する正しい目が、すぐにメアッツァの才能を見出し、ワイズ監督にトップチームへ連れてくるよう直談判した。

 こうしてメアッツァは1927年9月11日、16歳という年齢にしてコッパ・ヴォルタでのウニオーネ・ミラネーゼとの試合に先発。彼を発見した男の横で一緒にダービーを戦い、ジュゼッペとフルヴィオのゴールで6-1と圧勝した。

 メアッツァはインテルで14シーズンプレーし、その間に3度のリーグ優勝と1度のコッパ・イタリア優勝を経験。さらには得点王にも3度輝いた。彼は合計で408試合に出場し284ゴールを記録する。また、イタリア代表としても1930年代にW杯を2度制覇。どちらもヴィットーリオ・ポッツォ監督が率いていたときだった。

 メアッツァの存在の重要性は、特にビッグマッチの時に表れていた。彼は未だにACミランとのミラノダービーでの最多得点記録12ゴールを保持している。1928年4月28日から1936年2月2日の間では、8勝2分けという好成績に貢献。メアッツァがゴールした日にインテルが負けることは一度もなかった。

 そして、メアッツァが引退前にインテルに残した最後の贈り物は、当時まだ15歳のサンドロ・マッツォーラという才能の発掘だった。

ダヴィデ・ザネッリ


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