ミラノ発 – 「ネラッズーリ・ファミリーの1員になることは人生の里程標、格別な印だ。情熱をもって、しかし怒りはなく、フォルツァ・インテルと叫ばずにはいられない」
この台詞は、インテルのレジェンドであったジャチント・ファッケッティによるものだが、もう1人のネラッズーリを象徴する人物にも当てはまる。その人物とは、ハビエル・サネッティだ。偉大な背番号3がどのような称賛を集め、黒と青のインテルに欠かせない存在だったか知る者には、サネッティがその後継者に相応しいということが分かるだろう。
当時ファッケッティはそれを知る由もなかったが、その言葉は、後に1990年代と2000年代の何年間にもわたってサン・シーロで成功を収めたサネッティにも完全に当てはまる。対戦相手の主将と毎試合前に握手を交わしたサネッティ。かつてファッケッティがそうしたように、情熱をもって、しかし怒りはなく。
故郷アルゼンチンでサッカー選手としてのキャリアをスタートしたサネッティだが、当時からそのパフォーマンスは素晴らしいものだった。彼がブレークしたのは、1896年にブノスアイレス南部で創設され、白と緑をチームカラーに持つアトレティコ・バンフィエルド時代だ。それはサネッティにとって、移籍のために自身を磨くのに最適な場所だった。後に運命は、サネッティの身に着ける色を白と緑から黒と青へと変えることになる。
サネッティは、そのピッチ上で示す情熱から、すぐに抜きん出た存在だった。しかしそれは、国内外のアルゼンチンサッカーから連想する多くのステレオタイプとは異なるものだった。
すると、すぐにアルゼンチン代表でもプレーする機会を得るようになる。サネッティは、キャリアでアルゼンチン史上最高の通算145キャップを記録。その数字は、永遠に破られることはないと思われている。
ユヴェントスにも当然レジェンドが存在する。白と黒のユニフォームを纏い、10番を背負うプレーヤーと言えば、インテルファンはこの男しか思い浮かべないだろう。アレッサンドロ・デル・ピエロだ。
このストライカーは、何年間にも渡りイタリアダービーのキックオフ前にサネッティと握手を交わしてきた。その光景はもはや、この試合の代名詞とも言えた。サネッティ対デル・ピエロ、ネラッズーリ対ビアンコネーリ。
サネッティは何年間もインテルの象徴であり続けたが、全く同じことが、疑いの余地なくユヴェントスの10番にも言えた。
デル・ピエロは、ユヴェントス以外のクラブでは一度しかプレーしたことがなかった。そのクラブの名は、カルチョ・パドヴァ。ヴェネト州に位置する同クラブは、他の偉大な選手たちのスタート地点となる場所だった。アンジェロ・ディ・リービオ、デメトリオ・アルベルティーニらが代表的な名前だ。デル・ピエロは、カルチョ・パドヴァでサッカーへの巨大な情熱を成長させ、クラブへのリスペクトと献身性の重要性を学んだ。
そしてそれが、後にユヴェントスサポーターとデル・ピエロを繋ぐ絆を固く結ぶことになる。デル・ピエロのキャリアでインテルの接点は皆無だが、それでも彼のプレースタイルは、ファッケッティがかつて述べた言葉通り、『情熱を持って、しかし怒りのない』ものだった。
アレッサンドロ・デル・ピエロとハビエル・サネッティが、試合前に握手をするというシンプルな動作は、今や過去のものとなった。しかし、この素晴らしい光景は、永遠に2人の偉大な男を想起させることだろう。
ブルーノ・ボッターロ