ミラノ発 – それは2000年だった。フランス人芸術家ヴィンレマールが1910年に2000年の未来予想図を描いた。世界は飛行機に乗った警察と消防士にパトロールされると彼は予期した。現実は当然、21世紀になった世界は特にそこまで変わっていない。
だが、フランチェスコ・トルドにとって2000年は将来の可能性を大きく広げた年だった。その年は彼が未来に望んでいてたものが現実となり、彼の名前は伝説となった。それは2000年6月29日、アムステルダムで行われた欧州選手権準決勝で起きた。
運命の風がその試合に流れ込んだ。1999年のクリスマスの数日前、トルドは夕食の場でアルベルト・フェッラリーニと会った。トレヴィソ出身のフェッラリーニは古代象徴主義とインド数秘学を勉強しており、彼は運転教習学校も所有していた。
フェッラリーニはトルドのために“数字を読む“を了承し、こう宣言した:「君は2000年、偉大なることをやるだろう。そしてユーロでは正GKとして出場する」
だが、当時のイタリア代表監督ディノ・ゾフは欧州選手権前にチームメンバーを発表し、トルドは背番号12を受け取った。背番号1のユニフォームはパルマに所属していたジジ・ブッフォンが纏うことになったが、6月3日に同選手が怪我をしていしまい、大会参加を辞退することになった。未来のクラブ内でライバルとなる(運命のいたずら?)クリスティアン・アッビアティがブッフォンの代わりに招集され、トルドのバックアップメンバーとなった。フランチェスコはベルギーとオランダの共同開催の欧州選手権でイタリア代表を間違いなく率いてた。
イタリア代表のグループステージ3戦3勝に貢献し、準々決勝ではルーマニア代表を2-0で下した。トルドの頭の中には数ヶ月前のディナーのことを思い出しながら、彼の人生のゲームに準備を進めていた。準決勝のキックオフは18時00分。
その試合の朝、チームミーティングの間にフェッラリーニはトルドに電話をかけた。「今日がその日だ! いいかよく聞け、すべてが当てはまっている。数字は嘘をつかない。信じろ」と、彼がなまりまじりの言葉で声高に話した。トルドはフェッラリーニにミーティングの最中だからと説明しようとしたが、フェッラリーニはこう強調した:「君はゴールキーパーで何回かPKのピンチが訪れる。だが怖がることはない。君はすべてのPKを止めるか、彼らがミスをする」
その日のアムステルダム・アレーナはサッカーの歴史となった。33分、ジャンルカ・ザンブロッタが退場となり10人の数的不利に陥ったゾフ監督のイタリア代表は闘志と個性を持って気迫のこもったパフォーマンスをみせる。チームは圧倒的プレーを披露した背番号12に支えられていた。フェッラリーニが予想していた通り、試合中に2度のPKをオランダ代表が得る(38分、62分)。だがトルドがまずフランク・デ・ブールのPKをセーブ、一方でパトリック・クライファートのPKは右手でセーブしポストに当て阻止した。
だが、ドラマはそこで終わりを告げなかった。
120分を戦い0-0で終えたこの試合はPK戦へと突入したのである。まず1998年W杯フランス戦で決定的なミスを犯したルイジ・ディ・ビアジョがしっかりと決め、ジャンルカ・ペッソットも成功、フランチェスコ・トッティは落ち着いたチップキックでネットを揺らした。
だが、もう英雄はこの男だった。トルドはオランダ代表PKキッカー1人目を務めたデ・ブールを再び阻止したのである。2番目はヤープ・スタム、トルドはボールと反対に反応したが、ボールはバーの上へと超えた。トルドはピッチから起き上がり、彼は友達を思い出して叫んだ:「アルベルト! アルベルト! 」クライファートはゴールを決めたが、トルドはポール・ボスフェルトのPKを防ぎ、イタリア代表を決勝戦へと導いた。
2001年7月4日、ほろ苦い夏から1年後(イタリア代表は決勝戦でフランス代表に2-1で敗れた。シルヴァン・ヴィルトールが後半ロスタイム(90+3分)に同点ゴール、延長戦に入り103分、ダヴィド・トレゼゲが素晴らしいゴールデンゴールを決めた)、トルドはインテルに加入した。そこからインテルとトルドは9年間素晴らしい関係性を築き上げチャンピオンズリーグ制覇、5度のスクデット獲得、3度のコッパ・イタリアとイタリア・スーパーカップ優勝を成し遂げる。トルドはインテル選手として公式戦233試合に出場した。
トルドは信頼できるスーター選手であり、控えGKでもあった。彼は非常に謙虚で誠実であり、彼の嘘偽りのない笑顔はシャイな部分を隠した。フランチェスコは本物のリーダー、尊敬と愛を勝ち取る手本であった。彼が現役引退してから数年後の今でも。トルドはクラブにあるインテル・キャンパスで大事な役割を務め、インテル・フォーエバーのプロジェクトにも参加している。
ヴィンレマールは警察と消防士については間違っていたが、そこまで見当違いでもなかったと言えるだろう。2000年6月29日、1人の男が飛んだ。そして彼はイタリア代表背番号12を身に纏っていた。
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