フルヴィオ・コロヴァティ:ディフェンダーが彼の頭を使う時

 インテルで4シーズンを過ごした得点能力があったCBの物語を紹介する。

 ミラノ発 – 1983年11月のスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ、ミラノダービー開始5分、ハンジ・ミュラーが右サイドからFKを蹴った。フルヴィオ・コロヴァティがそのボールの行き先に位置し、かがみながらヘディングシュートを放ちGKオットリノ・ピオッティを打ち破った。アルド・セレーノが触りコースが変わったかもしれない。だが、そのゴールでインテルにリードをもたらした。ミュラーはネラッズーリの2点目を奪い、2-0で勝利を収めた。

 インテルのシーズンにとっても間違いなくコロヴァティのキュリアの中でも重要な瞬間であった。なぜなら、コロヴァティは生まれ育ったチームから決勝ゴールを奪ったからである。13歳のコロヴァティをACミランへ連れて来たのはジョヴァンニ・トラパットーリである。彼はその数年後、ネラッズーリの歴史に自身の名前を刻むことになる。

 フリウリで生まれたフルヴィオは若い年齢でガブリエレ・オリアリが始めたクラブがあるクザーノ・ミラニーノ(ミラノ県)へと移り住んだ。コロヴァティはACミランに在籍し、アカデミー、トップチームへと昇格し1982年までプレー。

 1982年夏、スペインで行われるW杯前のイタリア代表トレーニング合宿中のコロヴァティに当時インテルディレクターを務めていたサンドロ・マッツォーラが電話を掛けた。マッツォーラはコロヴァティに黒と青のユニフォームに着替えないかと提案し、コロヴァティはそれを承諾した。後に彼は当時のことをこのように証言している。その時、ACミランのセリエB降格でイタリア代表でポジションを失うことを心配していた。

 試合を読むことに長け、才能あるマンマーカーであった大柄なセンターバックのフルヴィオにとって、それは彼が叙述したように「クラブでファンと共に過ごした素晴らしい4年間」の幕開けだった。彼は「インテルで過ごした時間は素晴らしい思い出がある。なぜならファンは移籍した当初から素晴らしい歓迎をしてくれたからだ」

 1982年から1986年にかけてコロヴァティは、ワルテル・ゼンガ、ジョゼッペ・ベルゴミ、エヴァリスト・ベッカロッシ、また1984年からはカール=ハインツ・ルンメニゲ(「トレーニングでマークすることを避けた選手の一人」)を揃え、セリエAを2シーズン3位で終え、UEFAカップ準決勝で2回レアルマドリード相手に敗退を喫したチームメンバーであった。

 クラブのために約170試合を戦った29歳のコロヴァティは1986年の夏、彼の生誕地へと戻りウディネーゼに加入した。その後ローマへと移り、1989年から1993年までジェノアで第二の春を謳歌、ファンのお気に入りとしてその地位を確立した。それこそ彼が10年前ダービーでのゴールでネラッズーリを熱狂させたのと同じ様に。


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