“ネットブレーカー” ヴィルジリオ・フェリチェ・レヴラット

 かつてジェノアとインテルでプレーし、伝説を作ったある選手のストーリー

 ミラノ発 - 強力なシュートでゴールネットを破るということは、今では滑稽に―あるいは漫画のように―聞こえるかもしれない。しかしそれが起こった当時は、重いレザーボールと現在ほど強度のないネットが使われていた。そうはいっても、それが当たり前だったというわけではない。だが伝説となり“ネット・ブレーカー”という異名をとったヴィルジリオ・フェリチェ・レヴラットは、そのキャリアにおいて7枚ものゴールネットを破壊した。

 1904年にリグーリア州サヴォーナのカルカレに生まれたレヴラットは、後に当時のビッグクラブのうちの2つ、ジェノアとアンブロシアーナ・インテル(インテルナツィオナーレ・ミラノの当時の名前)でプレーすることになる。

 レヴラットはヴァードでそのキャリアをスタートし、1922年には第1回コッパ・イタリアの決勝ヴァード対ウディネーゼ戦に出場した。

 スコアレスで90分を迎えたこの試合は延長戦に突入。そして118分、飛んできたボールを若きFWレヴラットが左足一閃、ペナルティーエリアの角からゴール目掛けてシュートを放った。

 ゴールの裏に転がるボールを見た審判が近寄って調べてみると、ボールがネットをつき破っていたことがわかった。

 この日こそ、レヴラットの伝説が始まった日だ。ビデオのない時代に始まったこの伝説は、それから一世紀が経ってもなお人々によって語り継がれている。

 当時イタリア代表監督だったヴィットーリオ・ポッツォはこの並外れた才能を持つ選手を見るために自ら足を運び、その後1924年と1928年のオリンピックにレヴラットを招集した。

 レヴラットはアムステルダム五輪(1928年)で銅メダルを獲得し、中央ヨーロッパ選手権(1927年~30年)では優勝を果たした。

 ヴェローナで1年過ごした後、レヴラットはジェノアに移籍し、80ゴール以上記録してクラブ史に残る得点王の1人となる。しかしレヴラットはジェノアに10回目のスクデットをもたらすことはできなかった。

 1930年、ミラノで行われた試合で2得点を挙げたにもかかわらず、レヴラットはアンブロシアーナ相手にタイトルを逃した。ジュゼッペ・メアッツァのハットトリックで3-3としたネラッズーリは、シーズン終了まであと2試合を残してライバルに2ポイントの勝点差をつけていた。

 1932年から1934年の2シーズンにおいて、レヴラットとメアッツァは対戦相手にとって脅威となる関係を築き、最初のシーズンにはチームの合計得点数の約半数となる39ゴールを2人で記録した。

 しかしながら、67試合に出場して27ゴールを記録したものの、レヴラットがインテルでタイトルを獲得することはなかった。運が悪かったのか、それともタイミングが悪かったのかはわからない。しかしレヴラットは一度も優勝したことのないイタリア最高の選手として知られている。


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