セバスティアン・フレイと永遠のインテル愛

 フレイはインテルでは45試合にしか出場していないが、ネラッズーリGKとしてプレーした1秒1秒はファンに大きな印象を与えた。

 ミラノ発 - 「私はイタリアで多くのユニフォームを着たし、どのチームにも敬意を持っている。だが、インテルは私の“初恋“である。なぜなら、このクラブが僕を初めてこの国に連れてきてくれたからね」と、セバスティアン・フレイがinter.itのインタビューでネラッズーリとの絆を語った。

 多くの人々が、インテルで45試合に出場したことフレイを目にすると、なぜ同選手とインテルが強いコネクションがあるのか疑問に思うだろう。だが、37歳の元インテル選手は常に、「数試合で永久に残る印象を受けた」と強調していた。このような彼のインテル愛が彼にチャンスを与え、最近ではインテル・フォーエバーを代表する選手としてグローブを装着している。おそらくインテル在籍当時の1999年に比べたら幾つか歳を重ねただろう。だが、インテルユニフォームを着る興奮は過去と同じでいつでも変わらないものだ。

 フレイは5月のある夜、ローマのスタディオ・オリンピコで自身の能力を見せつけた。当時ネラッズーリ監督ロイ・ホジソン率いるインテルはタフなシーズンを送っていた。だが、インテル先発のクオリティーを見る限り、そのようなことは想像できない。なぜなら、チームにはロベルト・バッジオ、イヴァン・サモラーノ、そしてロナウドがいたからだ。相手チームのスターティングメンバーとしてパウロ・セルジオ、フランチェスコ・トッティ、マルコ・デルヴェッキオがピッチに立ち、攻撃主体のフォーメーションである4-3-3を当時ローマ監督ズデネク・ゼーマンが採用した。だが、フレイはベンチからその試合を見つめていた。

 63分、4-3でリードしていたネラッズーリだが、GKジャンルカ・パリュウカは突如、負傷しプレー続行が出来なくなった。オリンピコに訪れたファンの目はベンチに座っていた若きフランス人GKに向けられた。まだ18歳だったフレイはジェネヴァ湖の近くにある小さな町トノン=レ=バン出身。彼の家族はサッカー狂であり、彼の祖父アンドレはサッカーを観戦するためにフランス国内を旅するほどだった。一方、彼の弟ニコラスはキエーヴォ・ヴェローンで屈強なサッカー選手として成長し、家族の伝統であるディフェンダーになること選択した。だが、さらに活発的なセバスティアンは違う道を選んだ。そして、ゴールポストの間に立つポジションにキャリアを捧げることを決断する。

 話は戻り、その5月の夜はインテル加入してから4試合目の出場となった。そして、彼にとって最も記憶に残るゲームになった。フレイが、「ゴールを決めて発狂する男みたいに僕は嬉しかったんだ。あの夜はクレイジーだったね。試合が終わって、ベルゴミが僕のところに来て、大きなハグをしてくれた。当時の僕のような若い選手にとって、簡単なことではなかったからね」と説明した。金髪でインテル背番号22を纏うヤングスターは、インテル史上最も優れた選手の1人であるジュゼッペ・ベルゴミから称賛を受けた。

 フレイはカンヌでプレーしていた時にインテルスカウトの目に留まった。そこでセバスティアンは目を引くポテンシャルを示し、その後セリエAで10年間、ベストゴールキーパーの1人として活躍することになる。事実を言うと、フレイはインテルを離れパルマとフィオレンティーナ時代に自身のポテンシャルに気づく。そこではチェーザレ・プレンデッリが監督を務めており、フレイの成長に不可欠な大きな存在だった。

 困難な時期を過ごしていたフレイはインテル時代の友人であるロベルト・バッジオを訪ねた。バッジオはフレイに仏教と一般的な精神性を教えた。それはセバスティアンに再び自分のバランスと強さを与えた。そのフランス人GKは結果的にフィオレンティーナからジェノア、そして最後にブルサスポルに移籍した。彼はそこで2年間、山あり谷ありのキャリアの終焉を過ごす。2013年、フレイはトルコにプレー場所を移し、素晴らしいシーズンを楽しんでいた。しかし、急に多くの不可解なことが起きる。その翌年の2015年7月、フレイはブルサスポルとの契約を解除した。そして、2015年12月に現役から退いたのである。

 フレイは引退に関して沈黙を保った。だが、彼は所属したすべてのチームで良い思い出を残し、ピッチ内外でも本物のリーダーとして立ち振る舞っていたのだ。フレイはメアッツァから離れ、自身のキャリアを歩んでいたが、常にネラッズーリとしての小さなピースを持っていた。

 


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