インテルの鍵はベルナルディーニの成長

 MondoFutbolが、常にイノベーターとして先を見据えていたインテルのレジェンドのキャリアを振り返る。

 ミラノ発 - フルヴィオ・ベルナルディーニは、選手としても監督しても一人のイノベーターだった。1926年の春、ラツィオに所属していた当時20歳のベルナルディーニは、イタリアで最強のミッドフィールダーの一人と称される。その前年には、南からやってきた初めてのイタリア代表選手となった。

 ベルナルディーニは最終的に怪我でプレーを断念することになるが、最初は2列目としての詰め方や視野の広さなど、技術的な才能に恵まれた選手だった。そのプレーがインテルとユヴェントスという2つのビッグクラブの目に留まる。どちらのクラブからも好条件でオファーを受けたベルナルディーニだが、彼が選択したのはインテルだった。その収入と銀行での仕事(ベルナルディーニはミラノの高校で会計を学んでいた)に加え、ミラノの有名なボッコーニ大学で経済学を学ぶチャンスもあった。またベルナルディーニは、兄ヴィットーリオの力を借りて、ラツィオを去るために自費で2万リラを支払った。

 彼がインテルにいた期間はわずか2年だったが、彼のそこでの経験は、サッカーにおいても一般的な生活において非常に大きな影響を及ぼした。なぜなら、―― 後に国中を席巻することになるが ――  彼の才能が開花し始めたのは紛れもなくインテル所属時代だったからだ。彼はミラノで優秀な成績を収め、両親の家を出ると、その能力で人々を驚かせた。また、非常に教養があり彼のサッカーを知り尽くしていた監督アルパッド・ヴァイズが、彼を低い位置でプレーする司令塔からフォワードへ転向させ、その結果はすぐに表に現れた。

 インテルでの2年間でベルナルディーニは、継続的にゴールを決め続けた(1年目に10ゴール、2年目に17ゴールを記録)。そのうちの1ゴールは、1926年9月19日のACミラン戦で、その時インテルは6-3でミラノダービーを制した。フルヴィオのゴールは1-1の同点時の2点目だった。また、サン・シーロの落成式となった親善試合でもゴールを決めている。1980年、そのグラウンドはジュゼッペ・メアッツァと名づけられる。ベルナルディーニもよく知っていた男の名だ。実は、彼がインテルアカデミーの頃のメアッツァに着目し、トップチームに引き上げるように監督ヴァイズを説得したのだ。ペッピーノことメアッツァはフルヴィオに感謝し、後にインテルとイタリアサッカー界のレジェンドとなる。メアッツァとベルナルディーニは、ワンシーズン(1927-28)だけだが一緒にプレーしたが、ベルナルディーニに関してはその後ローマに復帰し、1939年までそこでプレーすることになる。そしてASローマは彼の死後、所有トレーニング場をベルナルディーニと名づけた。

 選手としてのキャリアを終えると、ジャーナリストとしてイタリア国内を旅する。それからマネージメントを経由し、ついにコーチングへ辿り着いた。彼は、1939年のサン・シーロで行われたイタリア対イングランド戦を見て、コーチングに恋をしたと明かしている。

 


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