マッツォラの父と息子

 MondoFutbol.comとのコラボレーション:マッツォラ親子にまつわるストーリー

ミラノ発 - 「いいかい、私は君のお父さんと試合をしたんだ。お父さんを誇りに思うだろう。私のユニフォームをあげるよ」

 この言葉は、1963-64年ユーロピアン・カップ決勝後に伝説的プレーヤーのフィレンツ・プスカシュがレアル・マドリード背番号10のユニフォームとを当時まだ21歳だったアレッサンドロ・マッツォラに与えた。サンドロはヴィエナのプラーター・シュタディオンで行われたロス・ブランコス戦で決勝ゴールを決めていた。

 17年前の1947年5月11日、プスカシュは違うマッツォラと対戦していた(この時は試合に負けている)。サンドロの父親である。当時スター選手が多かったハンガリー代表は3-2で11人中10人がトリノ選手(この時、グランデ・トリノと呼ばれていた)のイタリア代表に敗れた。当時のイタリア代表主将でありストライカーだった、ヴァレンティーノはチームの心臓部分だった。1940年代後半、トリノはセリエAを席巻し、ホームゲームはスタディオ・フィラデルフィアで行っていた。彼はチームのマスコット的存在であり、毎週日曜日はサンドロを連れてスタジアムに来ていた。

 幸せの時間は突然かつ悲劇的に終わりを迎える。1949年5月、トリノチームを乗せた旅客機が墜落し、スペルガの悲劇が起こった。サンドロは弟のフェッルッシオ、母親との3人で最終的にミランで住み始める。父親を失った悲しみがあるにも関わらず、サンドロのサッカーに対する情熱が消えることはなかった。学校が終わった午後はサン・ロレンツォでサッカーを続けていた。そこでインテルのレジェンド、ベニート・ロレンツィと出会う。トライアル後、サンドロは14歳でインテルのユニフォームを着る。次の出会いは、またもやインテルのレジェンドで1980年頻繁にサン・シーロへ来ていたジュゼッペ・メアッツァだった。メアッツァは、サッカー的にも、人間的にも素晴らしい素質を持っているサンドロに一目を置いていた。

 サンドロのデビュー戦は1962年のパレルモ戦だった。当時インテル監督エレニオ・エレーラがサンドロを先発に起用した。「今からおまえはインテルの選手だ。素晴らしいアタッカーに育ててみせる」と、アルゼンチン監督はサンドロに言い放った。そしてエレーラは正しかった。

 サンドロの功績:417試合に出場、116ゴールを記録。4度のリーグタイトル、2度のユーロピアン・カップ、2度のインターコンチネンタル・カップ、イタリア代表として欧州選手権制覇を果たす。ヴァレンティーノの息子は自らの力で歴史に名を残した。


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