進行役、ジョアン・マリオ

 MondoFutbolがネラッズーリの背番号6、ジョアン・マリオの生い立ち - スポルティング・リスボンからユーロでの成功まで - を振り返る旅へ連れて行ってくれた。

 ミラノ発 – 彼はチームの攻撃の心臓だ。そして、精確なポジションニングをとることで守備にバランスをもたらす一人でもある。彼が持つゲームへの先見の目は、常に正し場所に正しいタイミングで行うカバーリングを実現させている。

 彼のサッカー人生は、出身地ポルトに本拠地を構えるチームではなく、リスボンにあるスポルティングの下部組織でスタートする。ジョアン・マリオはそこで、チームプレーの権化と化した。彼のゲームへのアプローチは、プロフェッショナリズムとリスペクトという頑強な柱に基づいている。それは、頑固な母リディアと、同じくジョアン・マリオと呼ばれていた父から教わったものだった。父は、ジョアンと兄弟のウィルソンをスポルティング・ユースのアウレリオ・ペレイラの元へ連れて行った。スカウトでは世界最高峰にいた人物の一人だ。母リディアも息子たちと共にリスボンへ越した。熱狂的なスポルティング・ファンだったのも大きな理由のひとつかもしれない。リディアは、息子たちが緑と白のユニフォームを纏う姿を誰よりも見たがっていた。

 インテルが彼に初めて着目したのは、NextGenシリーズ(現UEFAユースリーグ)2011-12シーズンの準々決勝だった。当時大会を制したのは、アンドレア・ストラマッチョーニ率いるプリマヴェーラ。ジョアン・マリオはセントラル・ミッドフィールダーで出場し、ピッチで最も輝きを放っていた選手のひとりだった。

 マリオの次のステップは、期限付き移籍先のヴィトーリアFCとなる。ヴィトーリアの本拠地はセトゥーバルで、インテルを3冠へ導いたジョゼ・モウリーニョの出身地でもあり、全てのインテルファンにとって親近感の湧く町とクラブだった。言うまでもないことだが、ピッチ上でのパフォーマンスに加え、その礼儀正しさ、相手に示す敬意、物腰の柔らかさで、たった6ヶ月間で全員を見方につけていた。その翌シーズン、スポルティングに復帰したジョアン・マリオは、マルコ・シウバ監督の下、4-3-3の右でプレーする。その一年後、ジョルジェ・ジェズスが加わり、超攻撃的サッカーが浸透する。システムは4-1-3-2。マリオはそのシステムで躍動した。そして、スポルティングの永遠のライバル、ベンフィカにも勝利を収めた。

 ポルトガル代表にもその戦術の移行が伝染した。フェルナンド・サントスが率いるようになってから、選手たちは常にポジションを入れ替え、自身の与えられたポジションに固執するようなことはなくなった。そしてジョアン・マリオは、ユーロ2016の準決勝と決勝で見事なパフォーマンスを披露する。常にカバーリングを怠らず、ボールを前に運ぶか、適切なタイミングで適切なポジションにいる見方を見つけて送球した。インテルは彼にオファーを出し、彼も喜んでそれを受けた。そして彼は、ついにスポルティングのファンに別れを告げることになる。別れ際もマリオらしく、礼儀正しいマナーに則っていた。「今日から僕は、一人のスポルティングファンになる。僕は常に皆と一緒だ。すべてに感謝する」という言葉を残して。

 インテルに来てまだわずかだが、彼はすでにサン・シーロで信頼を勝ち取っている。それはまさに、真の世界レベルのプレーヤーが成し遂げられる芸当だ。ジョアン・マリオをピッチで見つけるのはとても簡単だ。常に正しいプレーをしている選手を探せばいいのだから。

 


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