インテル対ユヴェントス、セリエA初白星

 Mondofutbol.comが、読者を1909-10シーズンへ連れて行く。現在では、エングラーが試合を決めたその日から50年以上が経過した。

 ミラノ発 - 全てはオールド・レディーことユヴェントスとの試合から始まった。もしかしたら、それが事の始まりの合図だったのかもしれない。1909年11月28日(日)、その18ヶ月前に完成したばかりのミラノのアリーナ・チヴィカで、インテルとユヴェントスが第4節を戦った。それが、一つの同じリーグで戦った初めての試合だった(リーグ戦はその翌年に再び別々に分かれ、1929年にセリエAとして完全に統合する)。インテルはワンシーズン目の最後を2連敗で終え、さらに1909-10シーズンで最悪のスタートを切っていた。

 なぜなら、3節目を終えた時点での成績が、順位表で下から2位、合計勝点がたったの1だったからだ。まず、ダービーとなるアウソニアとの開幕戦に引き分けたインテルは、その後2連敗を喫した。最初の黒星は、ホームで迎えたプロ・ヴェルチェッリ戦(1-4)で、同チームはリーグ内の計9チーム中、唯一ミラノ・トリノ・ジェノア以外の町のチームだった。その次は、0-2で敗れたユヴェントス戦だ。この試合で2ゴールを挙げたのがエルネスト・ボレル。ボレルは後に、ヴィットーリオ・ポッソ指揮下でワールドカップを制したフェリチェ・プラチドの父となる。ボレルは、見事な活躍で瞬く間にチームを上位グループへと導いた。

 しかし、2週間後に再びユヴェントスとの再戦を迎える(当時は2シーズン制ではなかったため)。確かにインテルのパフォーマンスは改善されていたが、インテルはまだ格下としての評価を受けていた。また、このときのチームは大きく2つのグループに分けることができた。1つは、スイスから来た雇用者組みだ。中には、MFエルネスト・ペテリー、DFアルフレッド・ツォラー、GKミュラーがいた。スイス組の多くは、仕事を求めてミラノに来たものの、サッカーを諦めきれずに続けていた者たちだった。もう一方の組は、イタリア人中心だ。得点も取れるMFジョヴァンニ・カプラ、控えGKピエロ・カンペッリらだ。カンペッリは当時、GKのプレーの中でシュートをキャッチするという初めての概念を広めた人物だ。そして、外国人選手のエルマノ・アエビ、DFマリオ・モレッティ、そして最後にヴィルジリオ・フォッサーティだ。フォッサーティは20歳という年齢で(18歳と記されたデータもある)、キャプテンとしてチームを率い、インテルの中心選手として活躍。さらに、ピッチではゲームメーカー、ピッチ外では技術部門のメンバーとしてチームの運営に関わっていた。つまり、彼はリーダーとしての素質を持っていたということだ。前例のなかった赤と青のユニフォームを着たフォッサーティは、まさにインテルの象徴である。また、彼のプレーと言えば、美しいタッチやパス、シュートがお馴染みだった。メディアは当時、こんなことを記事に書いている。「まるで、彼だけがボールに愛されているようだった。非常に賢くボールをキープし、絶対に取られなかった」。

 しかし、良いプレーをしていたのはフォッサーティ一人ではなかった。インテル全体が見事なパフォーマンスを披露し、あとはGKペンナーノの牙城を崩すだけということろまで迫っていた。そして37分、その守備の牙城がついに破られる。ベルナルド・シューラーがクロスを入れると、オスカル・エングラーが至近距離から押し込んでネットを揺らした。このゴールは、同選手にとって2つの特別な意味を持っていた。なぜなら、彼はインテル移籍前にユヴェントスでプレーしていたからだ。

 そして、エングラーの2得点目がインテルをセリエA初の歴史的勝利へと導き、そこから爆発的な力をチームにもたらす。その後インテルは11連勝し、見事スクデットを獲得したのだ。そのときのメンバーで、アエビとカンペッリ以外にもう一度リーグタイトルを獲得した者はいない。そしてヴィルジリオ・フォッサーティは1920年の2度目の優勝を生きて見ることすら叶わなかった。フォサッティは1916年、第一次世界大戦で命を落とした。


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