ミラノ発 - 「運命と共に段階的に1人の男が自身の存在を示していく」ラティンアメリカ作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いたことが本当なら、少数の男たちは自分たちの運命を形にすることが出来たはずだ。そうラモン・ディアスのように。
ブエノス・アイレスのスーパークラシコでディアスは、リーベル・プレートの最大のライバルであるボカ・ジュニオールズを毛嫌いすることで有名だった。そして、彼は典型的なセンターフォワードである。彼はボールを持っても素早く、1980年代のセリエAで屈強なDFを相手にしても彼のファーストタッチは卓越していた。彼はストライカーとしての生粋のゴール嗅覚を持っていたのだ。
彼はほぼ多くの時間、相手を追いかけ、攻撃し、抜き去ることにチャンレンジしていた。まず、彼の視界に入ったのがアンゲル・ラブルナとディエゴ・アルマンド・マラドーナである。最初にディアスはリバープレートでキャリアを歩み始めた時、憧れていたラブルナのポジションを奪い取った。ディアスはその後、アルゼンチン代表としてU20ワールドカップに出場。決勝戦ではビハインドの状況からソビエト連邦に勝利し、トロフィーを空へと掲げた。ラモンはその大会の得点王に輝き、マラドーナはMVPに選ばれた。
その後まもなくして、ラモンはイタリアに戦いの場を移す。最初のチームはナポリだったが、1シーズンでアヴェッリーノに移籍する。
そして、フィオレンティーナに移籍したディアスは、そこで背番号10を纏うロベルト・バッジオとタッグを組んでビックプレーヤーとしての片鱗を見せ始める。両選手は素晴らしい2シーズンをフィオレンティーナで過ごす。しかし、チームのアベレージ成績は向上したが、キャビネットには1つのトロフィーも入らなかった。だが、両選手の能力と力で個人的にではあるが、素晴らしい功績を残す。当時アリゴ・サッキが率いるACミランとのアウェイ戦で勝利、さらにカブリーニ、ラウドルップ、シレアを擁するユヴェントスも下している。
そして1988年、ディアスはインテルと契約。
この移籍はディアスにとって博打だった。だが、ようやくディアスが持つ本物のポテンシャルが開花し始める。当時インテル監督ジョバンニ・トラパットーニはラモンとアルド・セレーナが理想的なペアだと考え、試合に起用し続けた。そして、ネラッズーリは『レコード・ブレーキング・インテル』と呼ばれ、1889-89シーズンの34試合で勝点58を獲得し、スクデットを掲げた。ディアスはそのシーズン、12ゴール12アシストを記録。彼はコッパ・イタリアとUEFAカップでPKスポット付近から頭、両足(彼は生粋のレフティー)でゴールを生みパワーと精確性、CFとしてのレパートリーの豊富さを見せつけた。
サッカー選手として成熟期を迎えていたディアスだったが、満足する結果が残せず、外国人選手枠を理由にインテルに留まることが出来なかった。だが、彼は十分にインテルファンのお気に入り選手となっていたのだ。移籍が多かったキャリアの中で、ディアスがインテルを成功の道へと導いてくれたことに変わりはない。
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